「今週のことば」 2017年1月

<2017年1月第4週>
新座北野校 室長 竹鶴 智宣
 
中学数学の広がり  フェルマーの最終定理


 中学3年の冬には三平方の定理を勉強する。『直角三角形の斜辺の平方(2乗)が他の2辺の平方の和に等しい』という定理だ。平方が3つあるので三平方の定理という。この定理はピタゴラスが始めて証明したので、ピタゴラスの定理ともよく言われる。ところでこの等式には、3辺が整数である特別な場合がいくつか知られている。受験生諸君にはおなじみの3:4:5や5:12:13である。しかし1:1:√ 2や1:√ 3:2は無理数が含まれるので整数解ではない。実はピタゴラスの定理の場合、整数解が無数に存在することが証明できる。
 この話を少し膨らませて別の問題を考えてみよう。まず、直角三角形について考えていたことは忘れて、等式だけに注目する。『ピタゴラスの定理の等式で指数の平方(2乗)を立法(3乗)か、それ以上の指数に置き換えたとき、整数解が存在するか?』という問題である。この問題に、17世紀の法律家であるフェルマーが、存在しないことを予想した。
 ここでフェルマーについて少し述べておこう。この人物の本業は法律家で、数学は趣味だった。彼は多くの数学者と文通をしながらその手紙の中で自分の得た結果を紹介していった。当時の代表的な数学者といえばデカルトやパスカルだが、彼らとも文通し、論争し、共同研究を持ちかけたこともあるようだ。その後微分積分学の創設者として知られるニュートンは、微分法の考え方はフェルマーの接線の求め方にヒントを得た、といっている。したがって、趣味の数学とはいえそのレベルは時代の最先端をいくものであったことを理解していただけると思う。ところが以外にも彼は自分の論文を一切発表していない。ただ愛読書であった、ディオファントスの『算術』の余白に48の書き込みを残していた。1665年永眠した後、彼の息子サムエル・ド・フェルマーは、父の業績が散逸するのを恐れて、『算術』を再版し、その付録として、父の48の書き込みを発表した。1670年のことである。これによってフェルマーの業績は後世の人々に知られることになった。先ほどの問題はその中の1つである。
 多くの数学者が48の問題に挑戦し解決していった。たが最後にこの問題が残された。このフェルマーの最終定理は結局350年間誰にも解決できなかった。そして紆余曲折を経ながら1995年ワイルスとテイラーによって完全に証明された。この証明は谷山=志村=ウェイユ予想を解決することによってなされたので、この3人も偉業にかかわったといえるが、それ以外にもこの問題には多くの人々がかかわっている。またこの問題解決のためにさまざまな数学理論が創られ、そして利用された。ワイルス達が証明のために使った理論は、楕円関数、ゼータ関数、セルマー数、ヘッケ環、エタールコホモロジ-、p進体、類体論、ホッジ理論、アーベル多様体・・・。聞いたこともない意味不明の単語が続く。天才ガウスは、この問題とは距離を置いて直接かかわらなかったが、彼が考えた環や複素関数は使われている。
 この何の役に立つのかも分からないような問題に、なぜこれほど多くの人々か没頭し、人生をささげたのか、疑問に思う人は少なからずいると思う。しかし何の役に立つのか分からない問題の解決のために多くの人々が挑戦し続けた結果、飛躍的に数学自体が発展した。ある数学者は『これで宇宙人が来ても、地球人は恥ずかしい思いをしなくてもすむ』といったそうだ。
 困難があればそれを克服したいと思うのは人間の本性である。これから10年後20年後の日本を背負う中学生に言いたい。君の困難を君が解決することで人類の未来が切り開かれるのだ。



<2017年1月第3週>
早宮校 講師 中岡 秀彰

急がばまわれ

 先日、妻が小3の息子の保護者懇談会で、隣席の女の子のお母さんから聞いた話である。息子は今、算数でコンパスを使っているが円を描くのが苦手のようだ。その日も気ばかり焦ってうまくコンパスがあつかえず、相当カリカリしていた様子。みかねた女の子のアドバイスは…、
           「そんな時は『急がばまわれ』だよ」
 小学校3年生とは思えないほどの聡明な助言に対し、あろうことかわが子の返した返事が、
           「オレは『善は急げ』なんだ!」
 その女の子のお母さんはほほえましい口調で語ってくれたが、妻は顔から火の出るような思いだったという。親切でかけてくれた言葉に対し、この返答はたしかに無礼千万である。しかし、この掛け合いの絶妙さに、正直、万雷の拍手を送る自分がいた。
 以前、この欄(2015年9月)にて言葉には寿命があることを述べた。古来連綿と語りつがれている慣用句やことわざ、故事成語や四字熟語は、そこに現代人をも納得させるセンスがあるからこそ生き延びているのだ。ゆえにことわざによる言葉の応酬はユーモアや頓智になりこそすれ、不思議とカドがたたぬものだ。現代人のコミュニケーションにおいて、ことわざは重要である。
 わが子が、寝ても覚めてもクロスワードパズルに熱中し、キーワードを探り出したい一心でわが母が愛用していた60年前のボロボロの辞書と首っぴきである話も以前この欄(同上)でふれた。が…、今では、厚さといい、ズッシリ感といい、筆者が枕がわりにしていた広辞苑を持ち出して必死に言葉を引いている。その時、大人にとってさえ決してあつかいやすいとはいえないこの書籍がわが子にとっての「宝探しの地図」になっている。このワクワク感こそが子どもたちをことわざ博士にも漢字博士にも成長させる。大人が勉強を押し付けたところで如何ともし難い。
 「少年老い易く学成り難し」ゆえに「善は急げ」と焦れども「急いてはことを仕損じる」。隣席の女の子がくれた「急がばまわれ」はまことに金言だ。



<2017年1月第2週>
高崎校 室長 小川 真一郎

入試問題に書いてあることは、受験生だけでなく
大人でも勉強になる。

 塾では、例年通り冬期講習会を行い、中3生は入試対策に多くの時間をかけ、高校入試の過去問の演習にも取り組んでもらいました。そして、ある私立高校の国語の入試問題の中に「はっとさせられるもの」がありました。次にその一部をご紹介します。
 
 何年か前から若い人たちの間で「利他」という言葉が復活していた。もともとは仏教の言葉で、他者のために生きることが最終的には自分のためにもなるという意味である。反対語は「自利」で自分の利益のために生きることを指している。<中略>
他者のために生きる。その他者とは他の人々でもあるし、自然という他者であってもいい。他の人たちの中には外国の人々もふくまれる。歴史や文化、思想といったものも私たちにとってはかけがえのない他者である。日本の伝統思想に従うなら、死者もまた忘れてはならない他者だ。<中略>
「自利」の虚しさと「自利」によって破壊された社会。このふたつの現実を感じとったとき、高度成長期以降の世代の人たちを中心にして「利他」への共感が芽生えていったのである。<中略>
今日の人間たちは、自分のためではなく他者のために生きる楽しさを少しずつ身につけはじめた。
 
 入試問題によく出題される筆者が書いた文章です。この筆者は東日本大震災以降の社会の変革をこのように感じているそうです。
 
 本番では、受験生は、合格点を取るために解答用紙に正解を書くことに必死で、問題文に書かれている内容を味わう余裕などないと思います。ただ、何か困難に遭遇した時に、「そういえばあんなことが書いてあったなあ。」とふと思い出せば、困難を乗り越える一助となることもありえるでしょう。受験勉強の中で、筆者の考え方や感じ方を少しでも味わうことができれば、そして、その体験を少しでも多く重ねていけば人間的に成長して読解力も向上すると思います。
 
 教える側も勉強になることが多いです。入試問題には「はっとさせられるもの」がありますが、この冬もそうした経験をした次第です。



「今週のことば」 2016年12月
 
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