「今週のことば」 2015年9月

<2015年9月第4週>
早宮校 講師  中岡 秀彰

言葉は生き物
 

 私事で恐縮だが最近、小2の息子がクロスワードパズルにはまっている。リビングだろうが電車の中だろうがおかまいなしにページを開いては、鉛筆をチョコマカ動かしている。
 たてマスとよこマスをうめていく中で様々な言葉が浮かび上がってくる。息子にとっては初対面の言葉が圧倒的に多い。そんな時、息子は

「おばあちゃん、辞書貸して!」

と、母が学生のころから使っている昭和34年発行のボロボロの辞書を引っ張り出してきて、その言葉が本当に存在するのかを確かめている。息子が「言葉との出会い」を大切にしてくれていることに感無量の思いがした。ただ、

「この言葉、辞書にでてないよ!!」

ということも多々ある。50年前の辞書ならさもあろう。生々流転…、時代の流れの中、言葉も生まれ、死んでいく。息子が調べようとしていた言葉は半世紀前にはまだ産声を上げていなかったのだ。息子に「言葉は生きている」ことを教えるよい機会だった。

 熟字訓で「砂利(じゃり)」という言葉がある。細石(さざれいし)の「ざれ」が語源だという説もあるが、江戸時代にはすでに使用されていたこの言葉がなぜ今日まで生きながらえているのか。
 ジャリという音感・質感がまさしく「砂まじりの小石」を表現する上でうってつけであり、それゆえに延命し続けたのだろう。語感は生命力である。


 国語の苦手な生徒にとって、「言葉」は妙にかしこまったものになってしまっている。しかし、いつか滅びるかもしれない生命との「出会い」だと思えば、愛おしさもでてこよう。国語の授業は、そんな言葉との一期一会の場なのだと伝えると生徒たちの瞳が輝きはじめる。
 今後も生命の光り輝く授業を心がけていきたい。



<2015年9月第3週>
高崎校 室長  小川 真一郎


テストなんてなければいい……。
 

 9月~10月初めのこの時期は、ほとんどの中学・高校で定期テストが実施される。塾でもテスト対策を行い、塾生とともに悪戦苦闘の日々が続くのである。
 
 「テストがなければいいのに」と一度は誰しも思ったことがあるはず。もちろん私自身もそう願ったのは、一度や二度ではない。
 
 では、学校のテストがなければどうなるのか。
 高校合格、大学合格どうやって決めるのか。
 入試だけの一発勝負でゆくのか。
 学校でのがんばりは評価しないでいいのか。
 学校でのがんばりを評価するとき、テストの結果がなければ、いったい何を評価するのか。
 学校の先生の思い込みだけ(言いすぎかもしれないが)の評価でよいのか。
 
 やはり今のところ、本人の努力の成果を公平に測るのはテストが一番いいようだ。
 
 長年、塾で生徒を指導していて強く感じるのは、「勉強することはとっても大切だ」ということである。あたりまえすぎるが、それが本音である。
 しかし、人間、目先の目標がなければ、なかなか努力をしないという現実もある。目先の目標として、テストは最適である。
 
 具体的に「○○点取る」という目標を立てて、それを達成するための準備を進める。調子が良かろうが悪かろうが準備を進め続ける。生きてゆく上においてもこのプロセスは必要だ。
 思い通りの結果が出る。それが一番良いかもしれない。
 だが少し長い目で見ると、自分なりに努力したけれど思ったほどの結果が出なかったときが成長するチャンスである。ふりかえると準備が足りない点、やり方がまずい点が必ずありそれを改善すれば、ステップアップできるはずである。
 逆に、それほど努力もせずたまたま良い結果が出た。これが最悪と私は考えるし、塾生にもよく話している。努力を怠ると大事なところでしっぺ返しを食らううことを何度か見ているし、自分も経験しているからだ。
 
 生徒の皆さんには、テストを一つの契機にして努力を続けてもらいたい。
 私たちはそれを精一杯応援してゆきたい。



<2015年9月第2週>
向山校 講師  藤河 健太

「宿題の目的」
                      
  

  この夏も宿題代行サービスが話題となった。読書感想文や自由研究など、小学生の宿題をその道のプロや学生が代わりに行うというもので、主に中学受験を控え たご家庭で利用されているらしい。このサービスについて世の中では賛否両論あるようだが、私はこのサービスに反対の立場である。小中学生にとってメインの 活動は学校の勉強なので、受験勉強や習い事のために学校の課題を疎かにするというのは本末転倒だと思うからだ。
 
 宿題代行業者を利用する理由として「将来スポーツやピアノなどの分野で成功したいので、その練習のために学校の宿題をする時間がない」とか「受験勉強のために学校の勉強をする時間がない」というが、果たしてそうなのだろうか?
  勉強というのは、知的分野だけでなくあらゆる活動の土台である。連立方程式や理科の公式、社会の年号そのものを実生活で使う機会というのはほとんどない が、勉強を通して身に付けることのできる情報の整理の仕方、直面する問題への取り組み方などは、仕事はもちろん実生活でも不可欠な能力である。勉強の世界 とは無縁と思われがちなスポーツの世界でも、一流選手の話は論理的で、様々な分野に渡る豊富な知識と思考力を持っていることが分かる。つまり一流になる人 間は「学力」も一流だということだ。
 また、中学受験をして志望校に入学する目的は、その子どもの能力を最大限に引き出してくれる環境で学校生活を送るためであって、合格することがゴールではない。習い事や受験ために本来やるべき学校の勉強や宿題を避けていて、本当に何かの分野で一流になれるのだろうか?
  
 読書感想文、自由研究、絵や工作物の製作…etc

 先生はなぜそのような時間のかかる面倒な宿題を出すのだろうか? 私はそういう面倒な課題こそ、最も本人の能力を開拓し、様々なことに興味を持つきっかけになるからだと思う。
 私が小学3年の時、宿題として出された読書感想文を先生から評価され、校内放送で自分の作文を読む機会があった。それまでは作文が得意とか好きとかいう意識はなかったのだが、この体験を通して文章を書くことに対して自信を持つことができた。
 子どもは予想外な物に興味を持ち始め、意外なことをきっかけに勉強に対する意識が変わる。宿題を代行業者に任せるということは、子どもたちからその機会を奪うのではないだろうか?
 
 エースでは読書感想文コンクールへの参加や社会科見学、中3の勉強合宿を実施している。それらを通して、子どもたちが様々なことに興味を持ち、勉強に対する意識が変わるきっかけになって欲しいと思う。



<2015年9月第1週>
上井草校 室長  田草川 英毅

  「やればできる」というファンタジーから抜けるチャンス
 

「彼は、『やればできる症候群』だな」
「自分はやればできるんだと思っている奴ほど結局できるようにはならないんですよね」
 一昔前に、同じ塾にいた講師と話していたことが、ふと思い返された。

  根拠のない自信から発せられるこの手の発言をする子どもたちは、実に多い。そして、子どもたちにそのように思わせてしまう原因のひとつに、親や先生の方 が、「君はやればできるんだよ」と、さかんに語ったり、諭したり、応援している現実があるのだと思う。周囲は期待を込めてそう話すのは無理もない。現実を 突き付けて、意欲を削ぐのは得策ではないという思いも働くのだろう。
 最近は、「自分はやればできる」という自己内の真理を守るために、あえて努力せずにいて、結果、できなかったことになって、その言葉を守ろうとすることもあるそうだ。

  受験まで、あと半年を切った。この現実からは逃げる術はない。「やればできる」を掲げて、努力を怠り、さまざまな誘惑に身を任せている時間的余裕はもうな い。親の目を盗んで勉強したフリして隠れて遊ぶ自分と決別する時が来たと思う。その言葉の甘さに浸っていると自分の人生痛い目を見てしまうよ。

「やらないと、できない」。こちらが真理だ。「今が甘々の自分から抜け出すチャンスだ」。夏休みが終わって、教壇に立った初日に、強く思わされた。



「今週のことば」 2015年8月
 
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